火葬や土葬など、ご遺体にかかわる手立てを「葬法」といいます。これらは葬儀の中で行われますが、風葬や水葬(川や海)なども昔はありました。
ご存知のように鳥に食べさせてしまう鳥葬や遺体をそのまま残そうとするミイラ葬なども葬法のひとつです。
日本では遺体に対しては、宗教性よりも「習俗性」、つまり土着的な民俗風習が強く、その処置の大部分が、仏教的な指示でなされているとはいえません。
その意味合いや所作から、日本人の死生観や他界観も感じられますので、相当に基層的な文化の中で培われてきたものであると思います。
古代人の「死」の考え方としては、肉体から魂が分離して切り離されていくものとしてそこに畏怖の念をもっていたことが、考古学的、民俗学的ないろいろな遺物や伝承からわかります。
そしてこの感覚は、今でも私たちの潜在意識にあります。ですから、仏教伝来以前からの慣習や習俗が、現代でも残存し、葬送儀礼、つまり葬儀の中に遺されているわけです。
遺体に対する湯かんは、洗浄ではありません。出来れば産湯の水源と同じ水を用いて、魂の再生や更新を推し進める意図もあります。
同じく、いまでも魂に対しては「枕飯」をしつらえ、棒を柱として差し込み(お箸)、魂の寄り憑きを促して、これを簡易的な「依り代」としている風習は、仏教的な死者儀礼の指示ではなく、庶民伝承としての死者対応です。
この他に白装束を着せたり、それが旅装束と重なり、死者の安置においては、北枕にこだわります。
これもお釈迦様の涅槃にあやかったわけではなく、北の方角こそ天の中心、つまり北極星の位置になるわけで、実に壮大な宇宙との一体感をその死にあてはめていたことになります。
こうしてみると、あの世やこの世などの感覚は、仏教的比喩よりも素朴で単純であり、そこには始原的な生と死の俯瞰的な姿を見ることができます。
現代でも、霊的なものに対する恐れや興味として、厄年のお参りや日々の運勢、占いなどへのこだわりも多くあります。
中でも、自然崇拝的な信仰観念として、ご来光登山、霊場散策、またご神木などの崇敬を含めて、それらはパワースポットなどと置き換えられ、根強く私たちの深層意識をかきたてます。
仏教が生活の中に浸透していく以前の、庶民の慣わしが今でも数多く伝承されているということです。
これらを特段意識していませんが、実に多くの慣例が葬儀の中には見られます。
葬法は遺体の実務的な取り扱いではなく、そのプロセスに、私たちの「習俗的な感性」が見分されます。そこでは、日本人の精神性の豊かさに触れることが出来ます。
日本葬祭アカデミー教務研究室/二村祐輔